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寺史(沿革)1
戦国時代の天文7年(1538)に
信州小笠原家の後裔である
下方氏一族の下方貞清が
義雲祖嚴和尚を開山とし、
居城である上野城の北東にある
藥師堂に祀られていた
薬師如来を本尊として
寺院を建立したことにより、
永弘院の歴史が開かれました。
貞清は、戦乱の世が進み
戦場を駆け巡る日々が多くなると、
武運長久と一族の安穏を
祈願するために信仰していた
勝軍地蔵菩薩を祀るための
お堂を寄進し、
お寺を心の拠り所としました。
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寺史(沿革)2
しかしながら突如、本能寺の変により
下方氏一族の存亡の危機が
訪れることとなり、
永弘院も檀越である下方氏の
荒廃と命運を
共にしていくこととなりました。
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寺史(沿革)2
歴代住職の厳格な宗風により、
上野村の禅寺として
村々の人々に支えられ、
少しずつ伽藍を整えていきましたが、
幾度となく災厄に遭い、
五世言峰如侃和尚の代、
九世魏峰祖欽和尚の代、
十四世孝山玄裕和尚の代に
大規模な再建がされたことが
伝わっております。_
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寺史(沿革)3
第二次世界大戦中の昭和20年5月14日
名古屋大空襲により
山門・鐘楼を残して悉く灰燼に帰し
諸堂宇を焼失しましたが、
人々の熱心な信仰に支えられ
十八世獨峰玄猷和尚
十九世宏道正稔和尚の代に
本堂、納骨堂、庫裡、書院、玄関、
隠寮、地蔵堂、茶室、塀等を
逐次再建・新築し、
今日に見る伽藍となりました。
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寺史(沿革)3
宏道正稔和尚は、
月々の行事、授戒会などの
大行事を精力的に行ない、
布教教化に邁進し、
寺門法燈の護持に尽力せられました。
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寺史(沿革)5
平成23年6月には、
二十世住職が就任しています。
塔頭に法蔵寺・万福寺・修善菴という
末寺がありましたが、
現在はありません。
また、扣地も上野村村地各所に
あったことが
伝えられています。_
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寺史(沿革)6
※『尾張侚行記』巻2(1822年)刊に、
「永弘院界内二反五畝備前検除○府志曰、永弘院在上野村、
号上野山、臨済宗、属洛陽妙心寺、
下方左近永弘住此、即建之、故名曰永弘院
天文七戌年草創ノ由、然ル二此寺下方氏離散ノ後零廃シ、
言鋒長老、元禄三年今ノ所ヘ易地再建」
(府志…『尾張府志』宝暦三年(1752)刊、天文7年…1538年、
言鋒長老…五世言峰如侃禅師、元禄3年…1690年)
※『尾張志』天保十四年(1843)刊に、
「永弘院上野村に有り上野山といひて京都妙心寺の末寺なり。
当所の領主下方左近源貞清創建して義雲祖嚴和尚を開山とせり。
貞清は信長記安土創業録、
織田軍記等にいへる小豆坂七本鎗の一人にして、
慶長十年七月十四日に死去し法号を永弘院心源浄廣居士といふ。
則、当寺の号とす。名古屋の世臣下方氏小瀬氏の祖なり。
義雲和尚は加茂郡萩平村三玄寺正宗法憧禅師の法嗣にして、
犬山口徳授寺に前住せり」
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開基・下方貞清(1)
開基は槍の名手と謳われた
上野城主・下方左近将監貞清です。
大永7年(1527)に上野城で誕生し
幼名は弥三郎と呼ばれていました。
織田信秀に随身した天文8年(1539)以降
織田家家臣として戦場を駆け巡り
幾度となく一番槍をあげました。
天文10年(1541)
父・貞経病死の後を受け
15歳で上野城を相続し
織田家に4500貫で仕えました。
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開基・下方貞清(2)
特に天文11年(1542)
岡崎・小豆坂の戦いでは奮戦し、
「小豆坂の七本槍」
・織田孫三郎信光
・織田造酒允
・佐々隼人
・佐々孫助
・岡田助右衛門
・中野亦兵衛
の一将として
敵味方共に
その名が広く知られるようになりました。
また、織田信忠の初陣における著鎧の際、
信長が武功の人を選び、
貞清にその役を命じました。
安土城築城の折りには
普請奉行を務め佩刀を賜りました。_
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開基・下方貞清(3)
信秀亡き後は信長に従い、
天文21年(1552)8月の萱津の戦い、
永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦い、
元亀元年(1570)7月の姉川の戦いと歴戦。
華々しい武功をたて名をあげました。
晩年は上野に住み、
二百二十貫文の土地を領しました。
本能寺の変後も尾張を離れず
福島正則が清洲にやってくると、
その幕下となりました。
蒲生氏郷、加藤清正、結城秀康などが
大禄で召し抱えようとしましたが誰にも就かず
松平忠吉が尾張の国主になった時に
貞景を召し出しました。
後に徳川家康が貞清を忠吉に附属させました。
慶長11年(1606)7月4日、
清洲城にて死去しました。
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下方貞清墓碑(1)
下方左近の墓碑は
永らく今の上野小学校の西北角辺りの
「永弘院墓地」にひっそりとありましたが
戦後に平和公園の当寺墓地に移転しました。
なお、貞清の長男・貞弘は
織田信忠に従い天正10年(1582)に
29歳の若さで二条城で討ち死にしました。
また、次男の貞吉は、武田喜太郎と称し、
本能寺の変で信長に殉じています。
貞弘の子には長男・弥次右衛門、
次男・貞景がおり、家門は続いております。
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下方貞清墓碑(2)
慶長十一年丙午七月四日
居士俗姓、下方氏貞清字左近、源家之末裔也。
為尾張春日井郡上野城主、当時武威雄偉、
而住尾州者凡三十六人、斯其一也。
始属織田家、数有戦功、
天文十一年、三州小豆坂之役、持鎗直入、
鏦殺強敵者七人、世称之七本鎗、又其一也。
尾州萱津之戦、於稲葉地川、撃河尻左馬助、
元亀三年、信長公嫡男信忠公、
有初著鎧之儀、時名世者預焉、貞清先著兜鍪、
柴田勝家在其次刷之。
永禄初、立一番鎗之功六矣。天正元年、
江州刀根之戦、撃魚住彦四郎、
同年江州姉川之戦、先馳而又有一番鎗之功。
其後勢州八田山城之攻、於晦日曲輪、
先衆馳馬、時人称之一番乗、而旌其勇也。
慶長丙午七月四日、於中島郡清洲城、
以疾頓卒于薩州守之席上、乃葬上野。
茲法名、其忠勇節烈、衆人所誦、不悉載焉。
祇記大概、以貽将来云」
永弘院心源浄廣居士
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下方貞清墓碑(3)
「下方左近…上野村の人。
『信長記』の小豆坂合戦の条に、下方左近
其時は彌三郎とて、十六歳云々。
唯七人して撞立て追返し、万死一生の身を免れて
勝鬨を上げたりけり。
後まで小豆坂の七本鑓とて、
児童の口までにとどまりけりと見え、
『太閤記』の岡田助左衛門が傳のうちに、
永禄のはじめ、下方左近將監六度、
柴田修理亮五度、
岡田助左衛門四度とかぞへいひしは
皆最初鑓の事なり。
かくて慶長十年七月四日死去し、
法號を永弘院心源浄廣居士といふ。
則當所に一寺を建て、義雲和尚開山にて、
臨濟宗京都妙心寺末として、
法號によりて永弘院と號す。」
『尾張名所圖會』(巻4)に、
「下方左近」が立伝されています。
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勝軍地蔵
下方貞清が、
武運長久と一族の安穏を祈願するために、
日頃から深く信仰していた
「勝軍地蔵」が祀られています。
貞清は戦場に赴くにあたり勝利を願い、
また家族の元へ無事に戻ってこれることを
強く祈ったに違いありません。