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臨済宗妙心寺派
上野山 永弘院(ようこういん)
令和3年 年回表
涅槃堂・地蔵堂 新築事業
  • 御参詣の際はご利用ください。

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  • 令和3年 年回表
    50回忌-----昭和47年(1972)

    47回忌-----昭和50年(1975)

    43回忌-----昭和54年(1979)

    37回忌-----昭和60年(1985)

    33回忌-----平成元年(1989)

    27回忌-----平成4年 (1995)

    23回忌-----平成11年 (1999)

    17回忌-----平成17年(2005)

    13回忌-----平成21年(2009)

    7回忌------平成27年(2015)

    3回忌------令和元年(2019)

    1周忌------令和2年(2020)

本堂
涅槃堂
写経塔
地蔵堂
山門
鐘楼
  • 寺史(沿革)1
    戦国時代の天文7年(1538)に
    信州小笠原家の後裔である
    下方氏一族の下方貞清が
    義雲祖嚴和尚を開山とし、
    居城である上野城の北東にある
    藥師堂に祀られていた
    薬師如来を本尊として
    寺院を建立したことにより、
    永弘院の歴史が開かれました。

    貞清は、戦乱の世が進み
    戦場を駆け巡る日々が多くなると、
    武運長久と一族の安穏を
    祈願するために信仰していた
    勝軍地蔵菩薩を祀るための
    お堂を寄進し、
    お寺を心の拠り所としました。
  • 寺史(沿革)2
    しかしながら突如、本能寺の変により
    下方氏一族の存亡の危機が
    訪れることとなり、
    永弘院も檀越である下方氏の
    荒廃と命運を
    共にしていくこととなりました。
    _
  • 寺史(沿革)2
    歴代住職の厳格な宗風により、
    上野村の禅寺として
    村々の人々に支えられ、
    少しずつ伽藍を整えていきましたが、
    幾度となく災厄に遭い、
    五世言峰如侃和尚の代、
    九世魏峰祖欽和尚の代、
    十四世孝山玄裕和尚の代に
    大規模な再建がされたことが
    伝わっております。_
  • 寺史(沿革)3
    第二次世界大戦中の昭和20年5月14日
    名古屋大空襲により
    山門・鐘楼を残して悉く灰燼に帰し
    諸堂宇を焼失しましたが、
    人々の熱心な信仰に支えられ
    十八世獨峰玄猷和尚
    十九世宏道正稔和尚の代に
    本堂、納骨堂、庫裡、書院、玄関、
    隠寮、地蔵堂、茶室、塀等を
    逐次再建・新築し、
    今日に見る伽藍となりました。
    _
  • 寺史(沿革)3
    宏道正稔和尚は、
    月々の行事、授戒会などの
    大行事を精力的に行ない、
    布教教化に邁進し、
    寺門法燈の護持に尽力せられました。
    _
  • 寺史(沿革)5
    平成23年6月には、
    二十世住職が就任しています。

    塔頭に法蔵寺・万福寺・修善菴という
    末寺がありましたが、
    現在はありません。

    また、扣地も上野村村地各所に
    あったことが
    伝えられています。_
  • 寺史(沿革)6
    ※『尾張侚行記』巻2(1822年)刊に、
    「永弘院界内二反五畝備前検除○府志曰、永弘院在上野村、
    号上野山、臨済宗、属洛陽妙心寺、
    下方左近永弘住此、即建之、故名曰永弘院
    天文七戌年草創ノ由、然ル二此寺下方氏離散ノ後零廃シ、
    言鋒長老、元禄三年今ノ所ヘ易地再建」
    (府志…『尾張府志』宝暦三年(1752)刊、天文7年…1538年、
    言鋒長老…五世言峰如侃禅師、元禄3年…1690年)
    ※『尾張志』天保十四年(1843)刊に、
    「永弘院上野村に有り上野山といひて京都妙心寺の末寺なり。
    当所の領主下方左近源貞清創建して義雲祖嚴和尚を開山とせり。
    貞清は信長記安土創業録、
    織田軍記等にいへる小豆坂七本鎗の一人にして、
    慶長十年七月十四日に死去し法号を永弘院心源浄廣居士といふ。
    則、当寺の号とす。名古屋の世臣下方氏小瀬氏の祖なり。
    義雲和尚は加茂郡萩平村三玄寺正宗法憧禅師の法嗣にして、
    犬山口徳授寺に前住せり」
  • 開基・下方貞清(1)
    開基は槍の名手と謳われた
    上野城主・下方左近将監貞清です。

    大永7年(1527)に上野城で誕生し
    幼名は弥三郎と呼ばれていました。

    織田信秀に随身した天文8年(1539)以降
    織田家家臣として戦場を駆け巡り
    幾度となく一番槍をあげました。

    天文10年(1541)
    父・貞経病死の後を受け
    15歳で上野城を相続し
    織田家に4500貫で仕えました。
  • 開基・下方貞清(2)
    特に天文11年(1542)
    岡崎・小豆坂の戦いでは奮戦し、
    「小豆坂の七本槍」
    ・織田孫三郎信光
    ・織田造酒允
    ・佐々隼人
    ・佐々孫助
    ・岡田助右衛門
    ・中野亦兵衛
    の一将として
    敵味方共に
    その名が広く知られるようになりました。

    また、織田信忠の初陣における著鎧の際、
    信長が武功の人を選び、
    貞清にその役を命じました。
    安土城築城の折りには
    普請奉行を務め佩刀を賜りました。_
  • 開基・下方貞清(3)
    信秀亡き後は信長に従い、
    天文21年(1552)8月の萱津の戦い、
    永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦い、
    元亀元年(1570)7月の姉川の戦いと歴戦。
    華々しい武功をたて名をあげました。

    晩年は上野に住み、
    二百二十貫文の土地を領しました。
    本能寺の変後も尾張を離れず
    福島正則が清洲にやってくると、
    その幕下となりました。

    蒲生氏郷、加藤清正、結城秀康などが
    大禄で召し抱えようとしましたが誰にも就かず
    松平忠吉が尾張の国主になった時に
    貞景を召し出しました。

    後に徳川家康が貞清を忠吉に附属させました。

    慶長11年(1606)7月4日、
    清洲城にて死去しました。
  • 下方貞清墓碑(1)
    下方左近の墓碑は
    永らく今の上野小学校の西北角辺りの
    「永弘院墓地」にひっそりとありましたが
    戦後に平和公園の当寺墓地に移転しました。

    なお、貞清の長男・貞弘は
    織田信忠に従い天正10年(1582)に
    29歳の若さで二条城で討ち死にしました。

    また、次男の貞吉は、武田喜太郎と称し、
    本能寺の変で信長に殉じています。
    貞弘の子には長男・弥次右衛門、
    次男・貞景がおり、家門は続いております。
  • 下方貞清墓碑(2)
    慶長十一年丙午七月四日
    居士俗姓、下方氏貞清字左近、源家之末裔也。
    為尾張春日井郡上野城主、当時武威雄偉、
    而住尾州者凡三十六人、斯其一也。
    始属織田家、数有戦功、
    天文十一年、三州小豆坂之役、持鎗直入、
    鏦殺強敵者七人、世称之七本鎗、又其一也。
    尾州萱津之戦、於稲葉地川、撃河尻左馬助、
    元亀三年、信長公嫡男信忠公、
    有初著鎧之儀、時名世者預焉、貞清先著兜鍪、
    柴田勝家在其次刷之。
    永禄初、立一番鎗之功六矣。天正元年、
    江州刀根之戦、撃魚住彦四郎、
    同年江州姉川之戦、先馳而又有一番鎗之功。
    其後勢州八田山城之攻、於晦日曲輪、
    先衆馳馬、時人称之一番乗、而旌其勇也。
    慶長丙午七月四日、於中島郡清洲城、
    以疾頓卒于薩州守之席上、乃葬上野。
    茲法名、其忠勇節烈、衆人所誦、不悉載焉。
    祇記大概、以貽将来云」
    永弘院心源浄廣居士 
  • 下方貞清墓碑(3)
    「下方左近…上野村の人。
    『信長記』の小豆坂合戦の条に、下方左近
    其時は彌三郎とて、十六歳云々。
    唯七人して撞立て追返し、万死一生の身を免れて
    勝鬨を上げたりけり。

    後まで小豆坂の七本鑓とて、
    児童の口までにとどまりけりと見え、
    『太閤記』の岡田助左衛門が傳のうちに、
    永禄のはじめ、下方左近將監六度、
    柴田修理亮五度、
    岡田助左衛門四度とかぞへいひしは
    皆最初鑓の事なり。

    かくて慶長十年七月四日死去し、
    法號を永弘院心源浄廣居士といふ。

    則當所に一寺を建て、義雲和尚開山にて、
    臨濟宗京都妙心寺末として、
    法號によりて永弘院と號す。」

    『尾張名所圖會』(巻4)に、
    「下方左近」が立伝されています。
  • 勝軍地蔵
    下方貞清が、
    武運長久と一族の安穏を祈願するために、
    日頃から深く信仰していた
    「勝軍地蔵」が祀られています。

    貞清は戦場に赴くにあたり勝利を願い、
    また家族の元へ無事に戻ってこれることを
    強く祈ったに違いありません。
  • 〒464-0082 愛知県名古屋市千種区上野1丁目4−18
    永弘院(ようこういん・えいこういん)
    電話:052-711-5035
    宗旨:臨済宗妙心寺派
    地下鉄(池下駅)から市バス
    名鉄バスセンターから名鉄バス
    名古屋高速・吹上西出口(東方向行)より約15分。
    幹砂田1号系統「大森車庫」行き
    「振甫町前経由」の場合は「谷口南」下車。真横がお寺。
    JR名古屋駅・栄駅から市バス
    地下鉄「砂田橋駅」から歩20分。
    基幹2号「光ケ丘・猪高車庫」または
    「引山・四軒家」行きにより「谷口」下車。南へ徒歩3分。
    (いずれも「市役所」を経由していきます)
    「三軒家」「三軒家経由・瀬戸駅前」「三軒家経由・菱野団地」
    「三軒家経由・尾張旭向ケ丘」「三軒家経由・長久手車庫」
    「三軒家経由・藤が丘」行き
    「谷口」下車。南へ徒歩3分。
    お車の場合