勝軍地蔵

下方貞清が、武運長久と一族の安穏を祈願するために、日頃から深く信仰していた「勝軍地蔵」が祀られています。貞清は戦場に赴くにあたり勝利を願い、また家族の元へ無事に戻ってこれることを強く祈ったに違いありません。
甲冑を身につけ武器を持った勝軍地蔵を拝みますと、不思議と力が湧いてきます。受験シーズンには、戦に勝つという意味から、必勝祈願に参拝する受験生も多くみられます。

勝軍地蔵尊略縁起

「抑々上野荘内に安置せられたる地蔵菩薩の御姿は歴然として大悲の御顔にして粧を含み給ふ事譬へば満月の如く之れを拝すれば忘執の雲忽ち霽れ悪業煩悩も自消し左の御手の宝珠には光を放ち福禄延命を能ふ。右掌金錫の一声、聞く者は罪悪業人の苦患を免れ菩提を得るの表示なり。爾等諸人合掌して菩薩を仰ぎ一必不乱に祈念せば願望成就満足し給ひ感応常に明らかなる事を示す。

南無地蔵尊と娑婆にて慈悲の名号を一度唱ふる功徳にて業に引かるる魂魄を導き給ひ無上菩提の極楽世界に導き救ひ賜ふ事世に父母の一子を思ふそれよりも哀み愍み給ふとぞ。若し我れを頼む人有らば我罪人の身に代り苦患を我に受けて世に仏や菩薩とは云はれまじとの御誓願なり。若し一沙一塵一毛、一涙の我に縁有る人は現世には福禄息災延命、国運隆盛、五穀成熟、所願成就、福聚海無量満足を得せしめ給ひ、無上菩提を得せしめんとの御誓願なり。

爰に大檀越(上野城主)下方左近将監源貞清創めて天文十一年八月十日織田備後守信秀に従ゐて小豆坂に於て今川義元と闘ふ時に、下方左近十六歳、同勢七人真先に進み各々鎗七筋を揃え其勢僅かにして義元の大勢を突き返し勝利を得る事世に小豆坂の七本鎗と唱ふ。夫れ左近貞清年若くして世に希なる武勇を振ふ事も偏に地蔵尊を祈り奉る心、恐らくは仏力の恵に預かる故ならん。

或時左近稲生の合戦に傷つき歩行も叶はず死に瀕せし時、白髪の老人白馬を曳き来り懐より丸薬を取出し左近の口に入れ疵に塗布せよと与へ給ふに忽ち心清く気も朗らにし給ひ、老人左近を白馬に乗せて自ら馬の口を取り給ひ上野城に御送り給ふ。

去れば江州姉川の合戦こそ六月炎天の事なれば、甲冑脱ぎ捨て主従一同水に一且の暑気を避けんとする時、一疋の白蛇左近の腰を纏わんと致せば、左近不思議に思ひ能く見れば地蔵尊の御身影蛇の身の内に顕れ給ふ、急ぎ水より皆上り六具を着し見渡せば俄かに敵の大軍推し寄せんとす、茲に敵を謀る事偏に地蔵菩薩の御知らせ給ふが故なりと。

古に盲女有り当地蔵尊を信仰し奉り毎日名号を唱ふ事一千遍信して怠たらず不思議なる哉盲女の両眼開きたり。又爰に当地蔵尊を信仰する人有り、秋九月の事にして母久しく病に良医良薬尽するに効なく其子孝心の人にして唯一心に地蔵尊を昼夜に祈り奉らば、苦しみ乍ら仮寝する夢に僧の来たる有り、よく身の内を撫で給ふと思えば鶏鳴一声耳に触れて母夢覚め件の由を母は其の子に語らば、子の曰く、我れ母の為めに願を発す、早菩薩の感応にましますかとて尚一心に念じ奉れば起きて居られぬ病人起き上り僅かのものも咽に通し難かりしも速かに通じ又心地も自ら清く気は朗らかとなり、三日を過ぎて病癒えたり。是れ全く信心の効なりと申すべし。

菩提心は衆生の堅固なる時は向ふ所の煩悩の賊、天魔の軍に勝たざると云ふ事なし、況や世間の軍に於てをや。故に勝軍地蔵と名く。金剛不可壌境界三昧と云ふ今に不生不滅の心地に住して自心の金剛宝蔵を啓く時は、地獄も天道も仏性も闡提も二乗も天魔も波旬も皆自心仏の名字なれば取る可き者なり。棄つ可き者なし天魔及び煩悩は自心の功徳眷属なり。

彼れ何ぞ我を壊す可けんや。我れ何ぞ何れも破る可けんや、之れを真実の不可壊行境界三昧大力将軍と号するなり。地蔵菩薩は一切罪苦の衆生を度し尽し後に成仏す可しと、大慈大悲の一切勝出する事高幢の独り空中に秀たるが如し、故に虚空の旗を菩薩と名く衆生は無量なれば衆生界は尽くるに時なし、故に地蔵菩薩の大悲願も亦尽くる事なき故に不可壊行境界と号するなり。

或る時毎夜金光明に於て菩薩住僧に告げて曰く、我一切衆生の為めに身を種々に現じ六道に遊化して娑婆世界ならしめんと欲す衆生悉く解脱す故に吾れ分身する事百千万億にして悪業の衆生を救ふことを。若し善男善女人我が名号を聞かば或は一胆或は一礼或は彩画或は形像を刻鏤或は童男童女瓦礫を以て塔を造り或は土を以て形を造り供養恭敬する限りは、二世安楽所願成就如意満足順縁も洩さず無上妙果の正を得せしむ可しとの御告あり、其時紫雲棚引ゐて山川林岳自ら荘厳光明輝き世に稀れなる印有り、住僧件の感応を諸人に語り示されける。

已上は上野山永弘院地蔵菩薩縁起に依り明著なり。

古今霊験を請けたる人に当町水野馬次郎氏あり、長く眼病を患ひ盲人となり名医に見放され、斯くては地蔵尊を信仰するに外なしとて七日断食参籠し一心不乱に名号を唱へたるに不思議にも満願の日に光を認め終に悪疾に眼病も治癒せり。又加藤某女は若くして顔に痣あり、母は百日間の願をかけ日参しその信心の力に依り顔面の痣は消へ失せたり。

猶児童の無事成長、病気平癒、家門繁栄、最近殊に入学祈願交通安全祈祷のため遠近より参詣し信仰せらるる人夥たし。
因みに上野山永弘院は天文七年上野城主下方左近が創建にかかるものにして末裔下方氏は名古屋市中区住吉町に在住せらる、さき名古屋市にては下方左近将監城跡地を史蹟として保存の為「上野城址」「下方左近将監源貞清居城」の標石を建設せられたり。

名古屋市千種区鍋屋上野町 上野山永弘院 勝軍地蔵尊保存会謹誌」