開基・下方貞清(1527~1606)

下方貞清

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開基は、槍の名手と謳われた上野城主・下方左近将監貞清です。
大永7年(1527)に上野城で誕生し、幼名は弥三郎と呼ばれていました。織田信秀に随身した天文8年(1539)以降、織田家の家臣として戦場を駆け巡り、幾度となく一番槍をあげました。

天文10年(1541)、父・貞経病死の後を受け15歳で上野城を相続し、織田家に4500貫で仕えました。特に天文11年(1542)、岡崎・小豆坂の戦いでは奮戦し、「小豆坂の七本槍」の一将(他に、織田孫三郎信光・織田造酒允・佐々隼人・佐々孫助・岡田助右衛門・中野亦兵衛)として敵味方共にその名が広く知られるようになりました。

信秀亡き後は信長に従い、天文21年(1552)8月の萱津の戦い、永禄3年(1560)5月の桶狭間の戦い、元亀元年(1570)7月の姉川の戦いと歴戦。華々しい武功をたて名をあげました。

また、織田信忠の初陣における著鎧の際、信長が武功の人を選び、貞清にその役を命じました。安土城築城の折りには普請奉行を務め、佩刀を賜りました。

晩年は上野に住み、二百二十貫文の土地を領しました。本能寺の変後も尾張を離れず福島正則が清洲にやってくると、その幕下となりました。蒲生氏郷、加藤清正、結城秀康などが大禄で召し抱えようとしましたが誰にも就かず、松平忠吉が尾張の国主になった時に貞景を召し出しました。後に徳川家康が貞清を忠吉に附属させました。慶長11年(1606)7月4日、清洲城にて死去しました。

下方左近の墓碑は永らく今の上野小学校の西北角辺りにあった「永弘院墓地」にひっそりとありましたが、戦後に平和公園の当寺墓地に移転しました。

なお、貞清の長男・貞弘は織田信忠に従い天正10年(1582)に29歳の若さで二条城で討ち死にしました。また、次男の貞吉は、武田喜太郎と称し、本能寺の変で信長に殉じています。貞弘の子には長男・弥次右衛門、次男・貞景がおり、家門は続いております。

貞清墓