下方貞経(~1541)

「忠右衛門、左馬允。大永年中(1521-1528)、尾張に来たり、春日井郡上野邑に住す。国士横井・天野・沢井・堀尾・佐久間、・河野・川方・津田・織田・長谷川・日置・石黒など36人あり、その一なり。近郷、織田伊勢守信安に属す。信安出奔し、織田弾正忠信秀、数百騎を率いて、上野を攻む。下方角右衛門、信秀と田疇に挑戦す。信秀を抱へ、既に首を執らんと欲す。信秀の兵援来し、角右衛門を撃つ。信秀死を免がる。此の時下方一族三十余人戦死し、貞経城を守る能わず、信秀に降る。天文十年(1541)丑二月十六日卒す。或いは曰く、織田大和守敏信に仕へ、六百貫を領す。敏信の卒後、天文七年(1538)戌、織田弾正忠信秀に仕へ、濃州稲葉山夜合戦の時、織田与次郎信康隊に属し、武名有り。後に信秀の命に依り、春日井郡名塚砦に到り、星崎花井氏と、援兵とし之を守る。云々」

『士林泝回』(名古屋市蓬左文庫蔵)…尾張藩編纂の藩士系譜集

※「下方貞清が信濃から移り住んだ上野村(千種区)は、山田郡(近世は春日井郡)に属しており、岩倉方の織田伊勢守家、清須方の守護代織田大和守家、両家のいずれに従っていたかは明確にしにくい。のちに織田信秀に仕えるようになったが、その時期が「天文七年戌」とあるのが注目される。信秀の那古野城攻略後に、下方氏は信秀に従った可能性が強いと思われる。」

『新修名古屋史 第二巻』p517~p518